自分の中に、ずっと矛盾した考えがあった。
一つは「それぞれの人が、それぞれの意思に従って人生を歩んでほしい」という、他者の幸福を願う心。
その一方で、「自らの選択に責任を持ち、役割を全うすべき」という強い”べき論”があった。
この二つが、頭の中でうまく折り合いがつかず、他者との関わり方に一貫性がなくなっていた。
要は、ある時は優しく、ある時は暴力的だった。DVする人間はこんな心持ちなのかもしれない。本当に自分は弱い人間だ。
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強い”べき論”は、自信の無さが表出した結果だ。
アイデンティティを支える柱が自分の中にないから、与えられた(もしくは過去に決めた)役割を全うすることに依存していた。
その”べき論”が、他者にまで溢れ出てしまっていた。要は、自分が頑張ってるから、相手にも頑張って欲しい。自分が我慢してるから、相手にも我慢して欲しい。
まだまだ自分勝手な思春期を抜け出せずにいたのだ。
ただ、色々なきっかけがあり、少しずつ、本当に少しずつだけど、「自らの選択に責任を持ち、役割を全うすべき」という”べき論”を手放せるようになってきた。
これまで関わってくれた人、今も関わり続けてくれている人のおかげだ。というほど綺麗なものでもない。
傷つけたり、傷つけられたり、傷つけたことを申し訳なく思ったり、自分の未熟さに悔しくなったり、そういう血の味がするような経験から、なんとか見出した学びだと思う。
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今は、それぞれの人間の幸福を最優先としながらも、一方で各役割(ポジション)に求められる期待値を変更しなくても良い。ということが分かった。
それぞれのポジションの期待を各人間に応じて変えることは難しいが、人間はそのポジションを選択することができる。何の役割を担いたいか、どんな期待に応えたいかを選ぶことができる。
例えば、スタートアップの経営者という役割に期待されることは、端的に言えば「急成長」だ。だから、その役割を担う人間には、その期待を元に「急成長しているか?」を軸に評価される。
このポジションの責任や期待値は変えられないが、この責任を負うかどうかは人間がいつだって選択できる。途中で始めることも辞めることもできる。一度決めたことを続けることもできれば、変えることだってできる。
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経営者、マネージャー、社会人、スタッフ、色々な役割が世の中にある。もっと広げれば、夫婦、親、子どもなどもそうだ。
ただ、人間がその役割に縛られる必要はない。
人間は、自らの意思で役割を選ぶことができる。
その役割に期待される枠組みに自分を無理やり押し込まず、自分が幸せで楽しめる枠を選択できる。
経営の仕事は、その人が輝けるポジションを見極め、提供することだと思う。同時に、該当するポジションがなければ、採用段階で互いのために思いやりと勇気をもってお断りすることだと思う。
「このポジションだから、〇〇すべき。そうじゃないと困る」なんてことは言わずに、「このポジションには〇〇が期待される。それはあなたにフィットするか?」と伝え続けたい。
人間が主体的に、その瞬間の意思に沿った仕事を選択できるように働きかけ、でき得る最大範囲でその機会を提供したい。
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この数日、年始の休暇をもらって九州へ向かい、遠距離結婚中の妻とゆっくり時間を過ごした。
初日の夜、金曜ロードショーで『かぐや姫の物語』が放送されていた。僕の大好きなアニメのTOP5に入る作品だ。
僕はこの作品を見るたびに、「自ら幸せを定義し、ノイズに惑わされない」と胸に刻んでいる。
皆さんご存知の竹取翁は、竹から生まれたかぐや姫の幸せのために、田舎から都へと引っ越す。そして、高貴な姫君に育つための教育環境を提供し、ついには貴公子や帝にまで求婚されるようになった。
しかし、かぐや姫の幸せとはなんだったのか?高貴な姫君になることなのか?貴公子と結婚することだったのか?
かぐや姫が月に連れ戻される数日前に、生まれ育った田舎へ帰り、野を駆け回りながら「生きている手応えさえあれば、きっと幸せになれた」と言った。
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かぐや姫は、明確に不幸だと自覚した。
自分にとっての幸せを知りながら、翁や時代が定義した「幸せ」に則ったことを、強く後悔した。
そして、翁もまた、かぐや姫の幸せを願い、人事を尽くしたにもかかわらず、最終的に愛する娘と別れることになった。愛し方を間違えてしまった。
人生を縛る役割など、ノイズだ。
経営者ならこうすべき。
社会人ならこうあるべき。
良い夫/妻はこれをすべき。
人間としてかくあるべき。
そんなものに左右される必要はない。
左右されては、月に帰るときに後悔する。
役割は自ら選択するものであり、誰かをコントロールする理由にはならない。
この考えを元に、今後かかわる全ての人に接していきたい。みんなが自分の幸せを見つけて、それを掴める機会を提供できるようになりたい。


