ふと、思い出す顔がある。
僕のこれまでの人生で、楽しさや喜び、想いを共有できた人たちの笑顔。
そして、最後に傷つけてしまった時の、真逆の表情だ。
普段は、特に困難を前にしている時には、それを乗り越えることに必死で、なんとかするために脳みそをフルで使用しているため、いつも思い出すわけではない。
ただ、楽しくて笑ったり、努力が報われて喜んだり、そういう時にふと思い出す。
動物や未来の人類のために、個人としてヴィーガンを選択した。そしてヴィーガンの選択をより簡単なものにするために、経営者としてその時に最善だと信じた選択をしてきた。
僕の根底にあるのは、平和を願う心であり、善い行いをする人たちへの尊敬と、そんな人たちの役に立ちたいという想いだ。
だけど、それにもかかわらず、目の前の一人すらも助けられないことがある。それどころか、傷つけてしまうことがある。
その度に、罪の意識が増していく。
もっと良い方法があったんじゃないか。もっと自分に能力があれば、知識があれば、資金があれば、こんな結果にならなかったんじゃないか。
と、自分の未熟さと力不足が悔しく、憎くなる。
“愛とは、差別的で残酷なものだ”
大学1年生の車の免許合宿の退屈な時間に、「愛とはなんだろうか」とA4用紙に書き連ねた時、この結論に至った。
愛とは、自らの限られたリソース(時間やお金、知識など)を、誰に与えるかを選択することであり、優先することだと思った。博愛や平等なんてものは、力のない僕にとっては現実的に不可能なものだった。
火事の現場、二人の子どもがいたとする。我が子と他人の子、どちらか一人しか救えない状況ならば、僕は間違いなく我が子を選択する。愛する存在を優先し、そうでない方を残酷にも見捨てるのだ。
極端なように思えるが、現実世界では常にこういうことが起こっている。
誰かと付き合うということは、誰かの気持ちに応えないということ。誰かを採用するということは、誰かを不採用にすること。ミッション達成のために長期で最適な意思決定をすることが、短期では誰かのデメリットにもなり得る。
もしも無限の時間、莫大なお金、全人類の叡智があれば、こんな残酷なことをしなくてもよかっただろう。しかし僕は、長くて100年程度の寿命と、吹けば飛ぶようなお金と、少ない知識しか持ち合わせていない。
その上で、何のために有限なリソースを使うのか、選ばなければならない。僕はその度に、誰かを見捨て、傷つけ、手を差し伸べられなかった申し訳なさに奥歯を噛む。
“罪悪感がなくなったら終わり”
昨日食事した桂さんのその言葉が、心を少し軽くした。
僕たちは、誰かを生かす一方で、誰かを殺している。誰かに手を差し伸べる一方で、誰かを見捨てている。
それでも、自分の有限なリソースを何のために使うのかを決めないのなら、誰も助けることができない。桂さんの場合、新しい贈与論で毎月どこに寄付をするかを決め、同時にどこに寄付をしないかを決めている。寄付は気持ちの良いものではなく、苦しみを伴うものだという話が印象的だった。
だけど、僕たちは誰も見捨てないがために、誰にも手を差し伸べないわけにはいかない。誰も傷つけたくないからと、誰も助けないわけにはいかない。
だからこれから先もずっと、誰かの役に立って感謝されながらも、誰かを救えなかった後ろめたさは増え続けるものなんだと思った。それを投げ出してしまっては、僕の人格が大きく変わってしまうような気がする。
今思えば、これまでは”後ろめたさ”を正しさや強さで蓋をして、誤魔化しながら歩んできたように思う。これから生まれる罪悪感を全て抱えて生きていけるように、もっと大きな器を心の中に育てていきたい。
そして二度と同じことを起こさないために、努力したい。「仕方なかったんだ」と開き直って全てを投げ出すような人間になりたくないのなら、自らを研鑽し続けるしかない。
罪悪感と共に、自分の願いに従って生きていけるように。
もっと強くなりたい。


