『進撃の巨人 完結編 THE LAST ATTACK』

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『進撃の巨人』の完結編(主にアニメのファイナルシーズン)が映画で見られると聞き、早速行ってきた。11月8日(金)に上映開始だったが、仕事もあり翌日の今日、11月9日(土)の朝8:30からTOHOシネマズ新宿へ。

もちろん、コミックも購入済みであり、アニメも何周も見返している。しかし、あの『進撃の巨人』を映画館で見られるのならば、行かねばならない使命がある。

このブログは、誰かに映画をおすすめするために書いているものではない。また、誰かに読まれるために書いているものでもない。ただ、涙目で映画館を出たこの感情を、記録するために書いている。

そのため、大いにネタバレがある。もし読みたい『進撃の巨人』好きの方がいるならば、ぜひ映画を見てから読み進めていただきたい。

支配は支配を生む。

最も印象深かったシーンの一つが、ライナーと母親との会話。

鎧の巨人の力を失ったライナーは、申し訳なさそうに、どんな反応が来るか怯えながら母親に向けてそのことを告げる。

結果、ライナー母は、「ずっと…ごめんね。ライナー…。これ以上何も…いらなかったんだよ。」とライナーを抱きしめた。僕はこのシーンが大好きで、コミックでもアニメでも映画でも、何度観ても泣ける。

この前のミュラーが飛行戦艦を始祖の巨人に向かわせる際のセリフを聞いて、ライナー母は膝から崩れ落ちている。ライナーが生まれてから、ずっと復習の”道具”として利用してきたことを、振り返った。生まれてきてくれた喜びがありながら、戦士として活躍するライナーを見て、自分本位な笑顔をしている自分を思い出した。

僕はこのシーンを見るたびに、大切なことを思い出せたライナー母と、初めて母親にありのままの存在を肯定されたライナーに「よかった…」という気持ちを抱く。その一方で、なぜ愛情を持ち合わせていたはずのライナー母が、これまで愛することができなかったのか?何がライナー母を我が子を利用させるまで追い込んでいたのか?と考える。

それはライナー父によるエルディア人への差別心であり、その差別心を生み出した人類の歴史だった。それらに抑圧されたライナー母は、我が子を抑圧した。自らの意のままに、ライナーの人生を強制した。結果、ライナーはパラディ島を襲撃し、また支配や恐怖が生まれた。

また、人類の巨人史の始まりであるのがユミルだ。ユミルもまた、奴隷として支配されていた。一方、ユミルの抑圧の昇華方法は支配を支配で返すのではなく、豚を小屋から出すという、他者を支配から解放することだった。また(ここは僕の考察だが)、自分を支配する王に対しても、侵略・富・権力に支配されることから解放してあげたいと考えていたのではないかと思う。

誰かを支配したり、利用したり、そんな気持ちが無意識に生まれるのは自然なことだろう。しかし、結果としてそれは世界に悪影響を与え、回り回って自分にも返ってくる。

僕たちは知性を持って、この無為意識に抗わなければならない。そうしなければ、誰かが作った差別心や憎しみに飲まれてしまう。その結果、自分の大切な人たちまでも犠牲になってしまうかもしれない。

そんな可能性をリアルに感じさせてくれるのが、『進撃の巨人』だと思う。

対立する人間にも共通項がある。

次に印象深かったのは、始祖の巨人エレンの背中の上で、ジャンがライナーを助けるシーンだ。(印象に残ったシーンにいつもライナーがいるので、僕はライナーが好きなんだと思う笑)

ジャンはライナーに対し「お前は許さないからな」と言い、ライナーは「許さないでくれ…」と言う関係だった。だけど、あの時手を取って、死のうとするライナーに対してジャンは「俺たちは往生際の悪い調査兵団だからな」と話す。

対立していた二人が、「調査兵団」と言う共通項によって、つながる瞬間があった。ライナーは少し嬉しそうだった。僕もそれを見て、嬉しかった。

僕たちにとって、あの落ち葉は何か

道の世界で、アルミンがジークと話すシーンも好きだ。

「生き物は増えることが目的」「なぜ生きる?増えるためか?」「なぜ仲間が死んじゃだめなんだ?どうせいつか死ぬのに」という悟りモードのジーク。

それに対し言い淀むアルミンは、砂の中から落ち葉を拾った。そして、幼少期にエレンとミカサと三人で過ごした日を思い出し、「僕はここで、三人でかけっこするために生まれてきたんじゃないかと思っった」と呟く。

ジークには、その落ち葉が野球ボールに見えた。そして、クサバーさんに「あなたとキャッチボールするためなら、また生まれてもいいかもなって…」と話す。最後にリヴァイに殺される直前にも「いい天気じゃないか..もっと早くそう思ってたら…」と話す。

つまり、彼らは「増えること(生命の目的)」よりも、自分にとって大切なことを思い出した。しかもそれは、三人でかけっこしたり、親しい人とキャッチボールしたり、些細なことだった。

では、僕たちにとっての、落ち葉はなんだろうか?

生きる目的はわからないかもしれないが、「生まれてきてよかった」と思える瞬間は、少しはあるんじゃないだろうか。そう考えると、思い出すシーンがいくつかある。

家族で車で出かけた帰り道、外は暗くなって、後部座席でウトウトしながら過ごす時間の温かさ。コロナ禍に彼女と一緒に近所の神社のベンチで読書した朝。友人とスマブラをして大笑いする楽しさ。そういうものなんだと思う。

最後のシーンの印象

映画では、アニメにはなかった最後のシーンが追加された。コミックにもあった、巨人消滅から100年後に、違う世界線のエレン・ミカサ・アルミンが、『進撃の巨人』の映画を見ていた。

感動するロックなミカサと、不満を言うオタクなアルミン。その二人に「三人で映画が見られてよかったよ」とエレンが言う。

アニメ版では「歴史は繰り返し、争いは終わらない」という悲観的な印象で終わったが、映画版の最後にワンシーン加わったことで、印象がガラリと変わる。

あの映画を見る三人は、まさに僕たちだ。一時的な平和の期間に生きる僕たちは、どう生きるか?支配・被支配の関係を脱し、いかに近くにある幸福を見つけられるかを問われている気がした。

僕にとっての、あの落ち葉は何かを問い続け、忘れないようにしたい。

この作品を作ってくださった諫山先生、アニメや映画制作に関わった全ての人に、改めて感謝を。

帰り道の空、いつもより綺麗に見えた。

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✏️ 書いている人

工藤 柊 / Kudo Shu

1999年2月28日大阪生まれ。高校3年生で環境問題・動物倫理からヴィーガン生活を開始。神戸大学国際人間科学部環境共生学科に入学後、学食へヴィーガンメニュー導入、ヴィーガンカフェThallo店長など活動。学生起業しNPO法人設立後、事業拡大のため2020年4月に株式会社ブイクックを創業。夢は世界平和。趣味は恋バナと漫画・アニメ。

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