『愛するということ』

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エーリッヒ・フロムの『愛するということ』を初めて読んだのは大学1年生の頃。当時は、「愛は技術なんだ…!頑張るぞ!」と、当時ヨーロッパに留学していた彼女との遠距離恋愛を頑張る材料程度にしていた。

そんな彼女と今月(2024年11月)に入籍することとなり、改めて読み返してみることにした。およそ6年ぶりに読むと、当時とはまったく違う学びやメッセージを受け取ることができた。

後で振り返りやすいよう、印象深かった部分を記録しつつ、時折それに対する感想なども記述しておきたいと思う。

はじめに

人を愛そうとしても、自分の人格全体を発達させ、それが生産的な方向に向かうように全力で努力しなきかぎり、けっしてうまくいかない。

第一章 愛は技術か

恋に”落ちた”二人は、親しくなるにつれ、親密さから奇跡めいたところがなくなり、やがて反感、失望、倦怠が最初の興奮の名残を消し去ってしまう。

しかし、最初は二人ともそんなこととは夢にも思わず、互いに夢中になった状態、頭に血が昇った状態を、愛の強さの証拠だと思い込む。

だが、実はそれは、それまでふたりがどれほど孤独であったかを示しているにすぎないのかもしれない。

第二章 愛の理論

共棲的結合(共依存的なもの)とはおよそ対照的に、成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。

愛は、人間の中にある能動的な力である。
人を他の人々から隔てている壁をぶち破る力であり、人と人とを結びつける力である。

生産的な性格の人にとっては、与えることはまったくちがった意味をもつ。彼らにとって、与えることは、自分の持てる力の最も高度な表現である。

与えるというまさにその行為を通じて、私は自分の持てる力と豊かさを実感する。この生命力と能力の高まりに、私は喜びを覚える。

どんな形の愛にも、必ず共通する要素が見られる。その要素とは、配慮、責任、尊重、知である。

配慮

ある女性が花が好きだと言っても、彼女が花に水をやるのを忘れているのを見てしまったら、私たちは花に対する彼女の「愛」を信じることはできないだろう。

愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。
この積極的な配慮のないところに愛はない。

責任

「責任がある」ということは、他人の要求に応じられる、応じる用意がある、という意味である。

愛する心を持つ人は求めに応じる。愛する人は、自分自身に責任を感じるのと同じように、仲間にも責任を感じる。

母子関係についていえば、生理的要求への配慮。大人どうしの愛の場合は、相手の精神的な求めに応じることである。

尊重

尊重とは、人間のありのままの姿を見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力である。尊重とは、他人がその人らしく成長発展していくように気づかう能力である。

人を尊重するには、その人のことをまず知る必要がある。その人に関する知によって導かなければ、配慮も責任も当てずっぽうに終わってしまう。

自分自身に対する関心を超越して、相手の立場にたってその人をみることができた時にはじめて、その人を知ることができる

愛こそが他の存在を知る唯一の方法である。愛の行為において、つまり自分を与え、相手の内部へと入っていく行為において、私は自分を、いや相手と自分の両方を、そして人間を、発見する。

幼稚な愛は「愛されているから愛する」という原則にしたがう。成熟した愛は「愛するから愛される」という原則にしたがう。

未成熟な愛は「あなたが必要だから、あなたを愛する」と言い、成熟した愛は「あなたを愛しているから、あなたが必要だ」と言う。

愛されるに値するから愛されるといった類の愛は、「ありのままの私が愛されているわけではないのだ」「私はただ相手の気に入ったというだけの理由で愛されているのだ」「要するに私は愛されているのではなく、利用されているのだ」といった苦い思いを生む。

子どもに対する母親の態度と父親の態度*とのちがいは、子ども自身の必要性に対応している。

幼児は、生理的にも精神的にも母親の無条件の愛と気遣いを必要とする。

6歳を過ぎると、父親の愛、権威、導きを必要とするようになる。

母親には子供の安全を守るという役目があり、父親には社会が押し付けてくる様々な問題に対処できるよう、子どもを教え導くという役目がある。

*ここでフロムがいう「母親」「父親」とは、あくまでメタファーであると理解する。現代において、一人二役を担うこと、役割が逆転、もしくは互いに2つを担う、ということがあり得る。重要なことは、「子どもにとってこの2つの役割が必要である」ということ。

母親への愛着(無条件の愛)から父親への愛着(教え導く愛)へと移行し、最後には双方が統合されるという発達こそが、精神の健康の基礎であり、成熟の達成である。

母性愛

母性愛は子供の生命と要求に対する無条件の肯定である。肯定には2つの側面がある。

  1. 子供の生命と成長を保護するために絶対に必要な気遣いと責任

2. 生きることへの愛を植え付けること。「生きていることは素晴らしい」という感覚を子どもに与える態度

蜜(2の側面)を与えられる母親になるためには、たんなる「良い母」であるだけではだめで、幸福な人間でなければならないが、そういう母親は滅多にいない。

    支配的な母親、所有欲の強い母親が「愛情深い」母親でいられるこは、子供が小さいうちだけである。

    本当に愛情深い女性、すなわち受け取るよりも与えることにより大きな幸せを感じ、自分の存在にしっかり根を下ろしている女性だけが、子供が離れていく段階になっても愛情深い母親でいられるのだ。

    恋愛

    より深く相手を知ることができれば、つまり相手の人格が無限であるのを知ることができれば、他人がそんなに身近になるはずがない。

    相手の人格が無限であることを知れば、壁を乗り越えるという奇跡が毎日新たに起きるかもしれないが、たいていの人の場合、自分自身も、他人も、すぐに探検し尽くし、知り尽くしてしまう。(と思ってしまう)

    そういう人の場合、親密さは主に肉体関係から得られる。その人にとっては、人間が互いに孤立していることは、肉体的に離れているという意味にすぎないので、肉体的に結合することで孤立を克服しようとする。

    そういう夫婦(個人的なことの告白、希望や不安の打ち明け、幼稚な面を晒すなどで孤立を克服しようとする人)は、ベッドを共にしている時とか、憎しみや怒りをぶつけ合っている時にだけ親しいように見える。

    だが、この種の親密さは時が経つにつれて失われていく。その結果、まだよく知らない新しい人との愛を求める。

    そして恋に落ちるという激しい高揚感を再び味わうが、その高揚感も次第に衰えていき、この新しい人も「親密な人」になってしまき、ふたたび、新たな征服、新たな恋を求めることになる。

    毎回、今度の恋は前のとは違うのだと幻想を抱いて。

    (上記の新しい恋を求めることは性的欲望の誤解されやすい性質だが)、
    しかし性欲は愛によって掻き立てられることもあるが、孤独の不安や、征服したいとか征服されたいという願望や、虚栄心や、傷つけたいという願望や、ときには相手を破滅させたいという願望によっても掻き立てられる。

    性欲はどんな激しい感情とも容易に結びつき、どんな激しい感情によっても掻き立てられるのだ。

    愛は本質的には、意志にもとづいた行為であるべきだ。すなわち、自分の全人生を相手の人生に賭けようという決断の行為であるべきだ。

    誰かを愛するというのは、たんなる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である。

    (しかし)人間の本性も恋愛もパラドックスに満ちているという事実である。すなわち、私たちは皆「一者(絶対的な存在としてすべての人間は同一)」だが、それにもかかわらず、一人ひとりはかけがえのない唯一無二の存在である。

    したがって、恋愛はひとえに個人と個人が惹きつけ合うことでたり、特定の人間同士の個別的なものであるという見解も正しいし、恋愛は意志の行為に他ならないという見解も正しい。いや、もっと正確にいうと、どちらも正しくない。

    自己愛

    自分の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する能力、すなわち配慮・尊重・責任・知に根ざしている。もしある人が生産的に愛せるなら、その人は自分のことも愛している。他人しか愛せない人は、愛することが全くできないのである。

    利己的な人は、外界を、自分がそこから何を得られるかという観点からしか見られない。他人の欲求に対する関心も、他人の尊厳や個性に対する尊敬の念も持たない。利己的な人には自分しか見えない。自分の役に立つかどうかという基準で全てを判断する。そういう人は根本的に愛することができない。

    利己主義と自己愛とは、同じどころか、正反対である。利己的な人は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎるのである。

    第三章 愛と現代西洋社会におけるその崩壊

    愛が成熟した生産的な能力だとしたら、どんな社会にいる人も、その愛する能力は、その社会が人々に広く及ぼす影響に左右される。

    現代資本主義はどんな人間を必要としているか。それは大人数で円滑に協力し合う人間、飽くことなく消費したがる人間、好みが標準化されていて、他からの影響を受けやすく、その行動を予測しやすい人間である。
    無理強いせずとも容易に操縦することができ、指導者がいなくとも道から逸れることなく、自分の目的がなくとも、「成功せよ」「休まずに働け」「自分の役目を果たせ」「ただ前を見て進め」といった目的に従って働く人間である。

    現代文明は、人々がそうした孤独に気づかないように、さまざまな鎮痛剤を提供する。
    制度化された機械的な仕事の、厳密に決められた手順。これがあるために、人々は自分の最も根本的な人間的欲求、すなわち超越と合一への憧れに気づかない。
    しかし、機械的な仕事だけでは孤独を克服できないので、娯楽までが画一化され、人々は娯楽産業の提供する音や映像を受動的に消費している。

    現代人にとって、幸福とは「楽しい」ということだ。楽しいということは、なんでも「手に入り」、消費できることだ。

    愛(とくに疎外された構造を持つ結婚の)のもっとも重要な表れの一つが「チーム」という観念である。幸福な結婚に感さる記事読むとかならず「結婚の理想な円滑に機能するチームだ」と書いてある。そうした発想は、滞りなく「適度に自立」しており、強力的で、寛大だが、同時に野心に満ち、積極的であるべきだとされる。

    子どもへの影響

    愛し合っていないにもかかわらず、自制心が強いために、喧嘩したり、不満を表に表したりしない両親の場合。

    たがいによそよそしいために、子どもに対する態度もぎこちない。子供から見ると、家庭内の雰囲気は「きちんとしている」が、父とも母とも心から触れ合うことができないので、子供は当惑と不安に悩まされる。

    その結果、子供は自分の殻に閉じこもり、白昼夢に耽るようになり、その後の愛情関係においても、そうした態度を保ち続ける。

    現代人は過去が未来に生き、現在を生きていない。感傷的に幼年時代や母親を思い出したり、将来の幸福なプランを胸に描いたりしている。

    「一家団欒」のなかにたまよう緊張と不幸の空気の方が、きっぱり離婚するよりもずっと子どもに悪影響を及ぼす。
    少なくとも親が離婚すれば、子どもたちは、勇気を持って決断すれば耐え難い状況にも終止符が打てる、ということを身をもって学ぶ。

    愛があれば対立は絶対に起こらない、という幻想である。
    ふたりの人間の間に起こる真の対立、ふなわち何かを隠蔽したり投射したりするものではなく、内的現実の奥底で体験されるような対立は、けっして破滅的ではない。
    そういう対立はかならずや解決し、カタルシスをもたらし、それによって2人はより豊かな知と能力を得る。

    第四章 愛の習練

    愛することは個人的な経験であり、自分で経験する以外にそれを経験する方法はない。

    規律

    まず、技術の習練には規律が必要である。規律正しくやらなければ、どんなことでも絶対に上達しない。

    集中

    第二に、集中。
    集中の欠如を1番よく示しているのが、「一人でいられない」という事実だ

    忍耐

    第三は、忍耐である。
    請求に結果を求める人は、絶対に技術を身につけることはできない。
    現代人は、なんぇも素早くやらないと、何かをーーー時間をーーー無駄にしているような気になる。

    関心

    最後にもうひとつ、技術の習得に最大限の関心を抱くことも、技術を身につけるための必要条件である。

    どんな技術であれ、それを熟達したかったら、自分の全生活をそれに捧げなければならない。少なくとも、生活全体を技術の習練と関連づけなければならない。

    愛の習練について

    大工の見習いはまず木を平らに削るコツを学ぶ。ピアノを習う生徒は音階の練習から始める。弓道を習うものはまず呼吸法を習う。

    どんな技術であれ、それに熟達したかったら、自分の全生活をそれに捧げなければならない。少なくとも、生活全体を技術の修練と関連付けやければならない。

    愛すると言う技術に熟達したいと思ったら、まぶ、生活のあらゆる場面において、規律、集中、忍耐の修練を積まなければならない。

    規律の練習

    現代人は、この種の規律にたいする反発から、あらゆる規律に対して懐疑的になり、その結果、誰もが、仕事以外の時間は規律のないダラダラとした怠惰な生活をして、毎日8時間強制されている決まりきった生活とのバランスを取ろうとする。

    しかし、重要なのは、外から押し付けられた規則か何かのように規律の習練を積むのではなく、規律が自分の意思の表現となり、楽しいと感じられ、ある特定の行動に少しずつ慣れていき、ついにはそれをやめると物足りなく感じられるようになることだ。

    「集中」の習練

    集中力の習得において1番重要なステップは、本も読まず、ラジオも聞かず、タバコも吸わず、酒も飲まずに、ひとりでじっとしていられるようになることだ。

    実際、集中できるということは、ひとりきりでいられるということであり、ひとりでいられるようになることは、人を愛せるようになるための必須条件の一つである。

    もし自分の足で立てないと言う理由で他人にしがみつくとしたら、その相手は命の恩人にはなりうるかもしれないが、ふたりの関係は愛の関係ではない。

    逆説的ではあるが、ひとりでいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ。

    たとえば、リラックスして椅子にすわり、目を閉じ、目の前に白いスクリーンを思い浮かべ、邪魔してくる映像や観念をすべて追い払って、自然に呼吸する。
    そうすることによって、呼吸が感じられるようにする。そこからさらに「私」を感じ取れるように努力する。私の力の中心であり、私の世界の創造者である私自信を感じ取るのだ。
    少なくともこうした練習を、毎朝20分ずつ(できればもっと長く)、そして毎晩寝る前に続けるとよい。

    そうした練習に加えて、何をするときにも精神を集中させるよう心がけなければいけない。
    そのとき自分がやっていることだけが重要なのであり、それに全身で没頭しなければいけない。

    くだらない会話を避けることと同じくらい重要なのが、悪い仲間を避けることである。ゾンビのような人、つまり肉体は生きているが、魂は死んでいるような人も避けるべきだ。

    また、くだらないことばかり考え、くだらないことばかり話すような人間も避けた方が良い。
    そういう連中は、会話らしい会話はせず、くだらないお喋りばかりして、自分の頭で考えようとせず、どのかで聞いたような意見を口にする。

    他人との関係において精神を集中させるということは、何よりもまず、相手の話を聞くと言うことである。

    集中力を身につけるための習練は、最初のうちは非常に難しく、いつまで経っても目的を達成できないのではないかという気分になる。

    忍耐の習練

    そこで、いうまでもないが、忍耐力が必要となる。やみくもに事を急ごうとすると、集中力も、また愛する能力も、絶対に身につかない。

    忍耐力がどう言うものかを知りたければ、懸命に歩こうとしている幼児を見ればいい。
    転んでも、転んでも、けっして止めようとせず、少しずつ上手になって、ついには転ばずに歩けるようになる。

    集中について

    人は自分自身に対しても敏感になれる。
    たとえば疲れを感じたり、気分が滅入ったりしたとき、その気分に屈したり、むい陥りがちな後ろ向きの考えにとらわれると、鈍感さを助長することになる。
    そういうといは、「何が起きたのか」と自問すべきだ。どうして私は気分が滅入るのだろうか、と。

    共通して重要なのは、変化に気づくことと、手近にある、ありとあらゆる理屈を持ち出してその変化を安易に合理化しないことである。それに加えて、内なる声に耳を傾けることだ。

    ナルシズムの克服

    愛を達成するためにはまずナルシズムを克服しなければならない。
    ナルシズム傾向の強い人は、自分のうちに存在するものだけを現実として経験する。外界の現象はそれ自体では意味を持たず、自分にとって有益か危険かと言う基準からのみ経験される。

    ナルシズムの反対の極にあるのが客観力である。これは、人間や事物をありのままに見て、その客観的なイメージを、自分の欲望の恐怖によってつくりあげたイメージと区別する能力である。

    敵の行動を評価するときと、自分たちの行動を評価するときとでは、それぞれ違う物差しを使う。

    敵がどんなに良い事をしても、あれは世界を欺こうとする特別の邪悪さのあらわれに違いないと思ってしまう。

    反対に、自分たちが悪い事をしても、それは必要な事であり、立派な目的のためだから仕方がない、というふうに考える。

    客観的に考える能力、それが「理性」である。
    理性の基盤となる感情面の姿勢が「謙虚さ」である。

    人を愛するためには、ある程度ナルシズムから抜け出していることが必要であるから、謙虚さと客観性と理性を育てなければならない。自分の生活全体をこの目的に捧げなければならない。

    愛の技術を身につけたければ、あらゆる場面で客観的であるよう心がけなければならない。

    信じること

    あるひとつの資質が必要条件となる。
    それは「信じる」というのとである。愛の技術の習練には「信じる」ことの習練が必要だ。

    根拠のない信念とは、道理にかなわぬ権威への服従に基づいた信仰のこと。
    理にかなった信念とは、自分の思考や感情の経験に基づいたら確信である。それは、何かを闇雲に信じることではなく、私たちが確信を抱くときに生まれる、確かさと手応えのことだ。

    信念は、人格全体に影響をおよぼす性格特性であり、ある特定の信条のことではない。

    人間の努力のどんな分野においても、総合的思考のプロセスは、「根拠のあるヴィジョン」とでも呼びうるものから始まる。

    この根拠のあるヴィジョンは、事前に調査を重ね、考察をめぐらし、観察した結果、得られる。

    根拠のある信念・根拠のない信念

    科学の歴史を振り返ってみれば、理性に対する信念や、真理のヴィジョンに対する信念の例を、いくらでも見つけることができる。

    コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ニュートンらは、理性に対して揺るぎない信念を抱いていた。
    そのため、ブルーノは火刑に処せられ、スピノザは破門された。

    根拠あるヴィジョンの着想から理論の構築に至る過程のあらゆる段階において、信念は不可欠だ。

    1. まず、ヴィジョンを、追及するに値する道理に適った目標として信じること。
    2. 次いで、仮説を信頼できそうな前提として信じること。
    3. そして最後に、出来上がった理論を、少なくともその正しさが一般に認められるまで、信じ続けること。

      この信念は、自分自身の経験や、自分の思考力・観察力・判断力にたいする自信に根差している。

      根拠のない信念は、ある権威、たるいは多数の人々がそう言っているからという理由で、何かを真理として受け入れる事だ。
      それに対して、理にかなった信念は、大多数の意見とは無関係な、自身の生産的な観察と思考に基づいた、他の一切から独立した確信に根ざしている。

      信念と勇気

      自分を「信じている」者だけが、他人に対しても誠実になれる。

      なぜなら、自分に信念を持っている者だけが、「自分は将来も現在と同じだろう、したがって自分が予想している通りに感じ、行動するだろう」と確信を持てるからだ。

      自信に対する信念は、他人に対して約束できるための必須条件である。

      理にかなった信念の根底にあるのは、生産性である。信念にしたがって生きるということは、生産的に生きるということだ。

      さらに、信念を持つには「勇気」がいる。
      勇気とは、あえて危険をおかす能力めあり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟である。

      安全と安定こそが人生の第一条件だという人は、信念を持てない。防御システムを作り上げ、その中に閉じこもり、他人と距離を置き、自分の所有物にしがみつくことで安全を図ろうとする人は、自分で自分を囚人にしてしまうよつなものだ。

      愛されるには、そして愛するには、勇気が必要だ。ある価値を、これが1番大事なものだと判断し、思い切ってジャンプし、その価値に全てをかける勇気である。

      みんなに受け入れてもらえなくとも、自分の確信を守り通すには、やはり信念と勇気がいる。

      困難に直面したり、壁にぶち当たったり、悲しい目にあったりしても、それを、自分には起こるはずのない不公平な罰だとみなしたりせず、自分に課せられた試練として受け止め、これを克服すればもっと強くなれるはずだというふうに考えるには、やはり信念と勇気が必要だ。

      愛する勇気

      人は意識の上では愛されないことを恐れているが、ほんとうは無意識の中で、愛することを恐れているのだ。

      人を愛するということは、何の保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に全身を委ねることである。

      愛とは信念の行為であり、わぶかな信念しか持っていない人は、わずかしか愛せない。

      能動性

      愛の習練にあたって欠かせない姿勢がひとつある。それは「能動性」である。

      能動とは、たんに「何かをする」ことではなく、内的能動、むまり自分の力を生産的に用いることである。

      愛は能動である。人を愛するとき、私は愛する人に対してつねに能動的に関わるが、その人だけに関わるわけではない。

      人間が能動的でなくて良いのは、眠っている間だけだ。

      覚醒状態には怠慢の入る余地などない。

      じつは、退屈したり退屈させたりしないことは、人を愛するための大事な条件の一つだ。

      思考においても感情においても能動的になり、一日中目と耳を駆使すること、そして、なんでも受け取ったまま溜め込むとか、たんに時間を無駄に過ごすといった、内的な怠慢を避けること、これが、愛の技術の習練にとって欠かせない条件の一つである。

      愛情面では生産的だが、他のすべての面では非生産的、というふうに生活が綺麗に分割されることはありえない。

      生産性はそのような分業を許さない。
      人を愛するためには、精神を集中し、意識を覚醒させ、生命力を高めなくてはならない。
      そして、そのためには、生活の他の面でも生産的かつ能動的でなければならない。

      社会制度からの影響

      現在の制度のもとで人を愛せる人は、当然ながら例外的な存在である。

      現在の西洋社会において〜生産を重視し、貪欲に消費しようとする精神が、社会を支配しているために、非同調者だけがそれに対してうまく身を守れるからだ。

      したがって、愛のことを真剣に考え、愛こそが、いかに生きるべきかという問題にたいする唯一の理にかなった答えであると考えている人々は、次のような結論にいきつくはずだ。

      すなわち、愛が、極めて個人的で些細な現象ではなく、社会的な現象になるためには、現在の社会構造を根本から変えなければならない、と。

      現代社会は、企業の経営陣と職業的政治家によって運営されており、人々は大衆操作によって操られている。

      人々の目的は、もっと多く生産し、もっと多く消費することだ。それが生きる目的になっている。

      いまや人間はロボットである。美味しいものを食べ、洒落た服を着てはいるが、自分の中にあるきわめて人間的な資質や社会的役割に対する究極的な関心を持っていない。

      人を愛せるようになるためには、人間はその最高の位置に立たなければならない。経済という機構に奉仕するのではなく、経済機構が人間に奉仕しなければならない。

      感想

      今回は、著者エーリッヒ・フロムの背景を少し知った上で読んだことで、より大きな気づきとメッセージを受け取ることができた。

      大学1年で最初に読んだ頃は、フロムがドイツ出身のユダヤ人であることも、『自由からの逃走』も読んではいなかった。

      フロムは、第一次世界大戦後、ドイツでハイパーインフレを経験し、そして民主主義国家としてナチスに傾倒していく国民、また結果としての戦争、差別、大量殺戮を目の当たりにした。(第二次世界大戦前にアメリカに亡命していたらしい)

      その上で『愛するということ』を読んでみると、ここにはフロムの願いが書かれていることに気が付く。

      二度とあんな悲惨な出来事が起こらないように、人々が自らの意思を持って(権威や大多数の意見に従わず)愛し合うことができる世界を実現するためには、と考えを巡らせている。

      最後にあった、現在の社会構造では、「愛すること」は非常に困難であり、できているのは”例外的な存在”とまで書かれている。

      つまり、フロムが最後に言いたかったことは、「今の社会では人を愛することは難しい。社会構造を変えなければならない」ということではないだろうか。

      現状の人を愛することができない”個人”を批判するのではなく、そうできない”社会構造”を批判している。

      そして、これはメッセージでもある。

      これを受け、人々が真に愛し合える(自らの意思を持ち、他者の幸福を願い、能動的に行動できる)世界をつくるために、「お前に託したぞ」というメッセージを伝える本ではないだろうか。

      「人々が愛する技術を習得することができれば、彼の時代に経験した、戦争、差別、大量虐殺がなくなる」という、仮説が僕たちの世代にも託されている。

      そんな経験をした彼が、憎しみや苦しみに飲まれ自暴自棄になることなく、「次に繋ぐ」という希望を持って生きくれたことに心からの尊敬と感謝を送りたい。

      そして、僕も今を生きる人間の一人として、しっかりとその願いを受け取り、自分の人生でできることを全力で行い、僕もまた次の世代に繋いでいきたい。

      いつか来る平和な世の中のために。

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      ✏️ 書いている人

      工藤 柊 / Kudo Shu

      1999年2月28日大阪生まれ。高校3年生で環境問題・動物倫理からヴィーガン生活を開始。神戸大学国際人間科学部環境共生学科に入学後、学食へヴィーガンメニュー導入、ヴィーガンカフェThallo店長など活動。学生起業しNPO法人設立後、事業拡大のため2020年4月に株式会社ブイクックを創業。夢は世界平和。趣味は恋バナと漫画・アニメ。

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