「良い人」から降りる
「良い人」
僕はずっと「良い人」になりたかった。 誰かが困っているときに、手を差し伸べられる人間に憧れた。
「良い人」について考えると、中学生の頃のことを思い出す。 クラスメイトが給食をこぼしてパニックになっている時に、躊躇せずに素手でそれを拾って安心する言葉をかけていた友人。 いつもはアホなことばかりしているのに、道路で轢かれそうになっている猫を見て、道路に飛び出し、迫る大型トラックに合図して止めた友人。
僕は、そういう人間になりたかった。
一方で、傷つけたこともある。
小学生の頃から仲の良かった友人を裏切るようなことをした。挙げ句の果てに、傷つけてしまった友人から救いの手を差し伸べられることもあった。
自分の矮小さが情けなく、流れに抗えなかった意志の弱さを憎んだ経験が何度かあった。 僕は、自分のそういう弱さが許せなかった。
だから、誰のことも傷つけない良い人に。 全ての人を理解し、助けられるような強い人間になりたかった。
良い人ではない自分
同時に、学校教育や社会からも、そういった「良い人」像を植え付けられてきた。
様々な価値観・背景がある人がいる、だからそういう人を理解して受け入れよう!という多様性教育を受けてきた。 僕はこう育てられてきて良かったと今でも思う。
でも、現実はそうではない。 そんな理想的な世界に憧れつつも、等身大の僕には誰かれ構わず受け入れられる器などなかった。
人がたくさん死ぬ戦争を是とする考えや、労働者を搾取する資本家の理屈も、殺されるために家畜動物が産まれ続ける構造も、ありふれた差別的な言動も、「そういう人もいるよね」と受け入れることはできなかった。
強烈な違和感に、鳥肌が立つ。気持ちが悪くて吐きそうになる。
こういう自分の中の偏った「違和感」と、一方で誰のことも受け入れるべきという「良い人」の2つの考えが、自分の中に同時に存在していた。
この2つは反発して、たまにモヤモヤと表出することがあった。
どちらが本心か?という問いに、僕は「違和感」を選ぶ。 だから「良い人」からは降りることにした。
というか、元々「良い人」なんかじゃなかったことを受け入れることにした。 誰に対しても優しく、無害で、聖人君主のような虚像を手放すことにした。
現実は漫画とは違う
以前、ジェイソンさんとInstagram LIVEで話してた時に「アメリカの州によって、中絶が違法なことがある」という話になった。
ジェイソンさんにとって、それは気持ちの悪いことだった。僕はそれに共感する。母体の権利だと思う。
一方で、妊娠時点で命である、その命を殺してはならないという考えの人にとって、逆に中絶が気持ちの悪いことなのだろう。
マダラが無限月詠で実現したかった「勝者しかいない世界」とは、どちらも理想の世界で生きられる道だったのかもしれない。
だけど、現実は漫画の世界とは違って、両者両取りはできないのだと理解した。
自分の話に戻すと、例えば、戦争に反対することは侵略を是とする価値観の人間を、根本から否定することになるかもしれない。
ヴィーガンの仕事を通して、家畜動物を減らすことが実現できれば、畜産業に夢見る若者の夢を踏み躙ることになってしまうのだろう。
それでも、僕は不条理が溢れる世界のまま続くことに納得することができない。
"価値観を押し付けるな"
ヴィーガン生活を始め、仕事にして、発信をしていると「価値観を押し付けるな」という言葉を、何度言われたかわからない。
もちろん、個人に価値観を押し付けることはしない。これからも、そんなことはしないだろう。
人間には意思があり、思考することができ、それぞれが自由に行動を選択できる。僕はそれは人間の強さであり美しさであり、尊重したいと思っている。
だけど、「価値観を押し付けるな」というのは、「価値観を尊重し合え」という価値観を押し付けていることに等しい。
その価値観を押し付けられていたのは自分だったことに、最近になって気がついた。
そして、その「多様性」価値観の押し付けに応えようとしてきたし、上手く対処できていたように思う。でも、それは僕の本心ではないと気がついたのも最近だった。
ぼくのかんがえたさいきょうの世界
みんな「ぼくのかんがえたさいきょうの世界」を持っている。
もっと分かりやすくいうと「いいなと思う社会」「なんか嫌だと思う出来事」がある。
僕にとってのそれは、戦争がない世界であり、全ての子どもたちが笑って生きられる世界であり、動物たちが不条理に殺されない世界であり、美しい自然に感動できる世界。
一方で、これに反する人がたくさんいるのも分かる。
自国の繁栄のための侵略に肯定的な価値観、子どもを労働力として無理に搾取する習慣、動物をモノ扱いする構造、短期の利益のために自然環境を破壊する行為。
それぞれに正しさや理屈があるように、僕にもそれがある。
自分が正しいと思うことも、もう辞めたいと思う。
ただみんな、自分の理想的な世界をつくるために必死に生きているだけなのだと思うようになった。 その一生懸命な積み重ねが、今なのだと思う。
日本においても、飢餓や病気は減り、人種に関わらず人権が認められ、女性も選挙権を持ち、仕事や結婚相手を選択する自由を獲得してきた。
これもまた、名も無い一人一人の一生懸命な「こんな世界が良い」という願いが積み重なって、その時代に選ばれた結果だと思う。
僕もまた、みんなと同じように、自分のベストを尽くしたいと思った。
誰かの敵である責任を引き受ける
どんな人であっても、誰かにとっての英雄であり、誰かにとっての敵だということを、より深く理解できたように思う。
例えば、僕の場合はヴィーガンコミュニティにとっては、ヒーローのように映るはずだ。 一方で、畜産業界から見れば、自分たちの生活や価値観を脅かすヴィランなのだ。
僕はこれまで、この矛盾に対して、どうにか「誰も傷つけない方法」がないかと探していた。
しかし、僕にはそんな超人的な力はない。そのことをやっと受け入れることができた。
ただの未熟で、弱い人間だった。 27歳の若輩者で、裕福な家の子孫でもなく、突出したセンスや才能もない。
だから、先人たちがそうしてきたように、多くの人がそうしているように、不器用に足掻くように自分のベストを尽くすしかないのだ。
そして自分の弱さゆえに誰かを傷つけてしまうことを、力不足ゆえに全員を守れないことの責任を引き受けたい。
開き直るわけではなく、そんな罪悪感を抱えながらも、一つの命として必死に自分の信じる理想を実現するために歩みを進めていきたい。
腹が決まる
多分、「腹が決まる」「覚悟が固まる」というのはこういうことなんだと思った。
自分の弱さを認め、限られたリソースをどこに割り振るか。そして、力不足ゆえに見限らざるを得ない領域があることへの情けなさ、罪悪感を受け入れるということなのかもしれない。
この数週間で何度も考えたり、いろいろな人に話す中で、考えがまとまった。今はモヤモヤとしていたものが晴れ、潔い気分を感じている。
最高の世界を共有する同志
そして、何よりありがたいことは、孤独ではないことだ。
特にヴィーガンについては、大多数の「最高の世界」との共通項ではないため、直接言われるわけではないが反対の立場の人が多い。(差別や戦争に反対すると、賛成意見が多い)
しかし、「動物が不条理に搾取されてるのっておかしくね?」という僕の違和感を理解してくれる人がいて、そうではない世界を実現するために協力してくれる仲間がいる。
「最高の世界」を共有する人を、同志と呼ぶのかと思った。
ヴィーガンの仲間はもちろん、社会起業家や活動家の人にも、同じような感情を抱く。
そんな人たちがいることに、心から感謝したい。世界は捨てたもんじゃないと思わせてくれて、本当に本当にありがたい。