死を肯定する「運命論」が嫌いだ

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珍しく、ネガティブで否定的なタイトルから文章を書き始めてみる。

というのも、これまでの自分は「ポジティブな表現で発信した方が良い」「ネガティブな感情はない方が良い」という思い込みが強かった。それによって、僕の根本にある怒りに蓋をして、見ないふりをして生きてきたんだと気づく機会があった。
そして、蓋をしてしまったがゆえに、自分で認めてあげることもできず、いつまで経っても昇華できずにいるのだ。まずはその感情を、そのままを受け止めてあげる必要がある。

僕の根幹は怒りや悲しみである。愛で動けるようなできた人間でもなければ、希望を胸に目を輝かせる漫画の主人公のような人間でもない。という事実を、まずは受け止めていきたい。
誰が読むかは分からないが、「これがイヤだ」「これが嫌いだ」という気持ちを、ありのままに世に出すことによって、こういった感情を自分で認めてあげて、昇華させる一歩目としたい。

嫌いな言葉の一つに「運命」がある。

「運命の人」「運命の出会い」など、ポジティブな意味で使われることも多い言葉で、この使い方については特になんとも思っていなかった。ただ、死を肯定するために使われた「運命」という言葉が、ひどく気持ち悪くて、その出来事があってから僕はこの言葉を嫌悪するようになった。

5年ほど前、友人の女性と話している時に、ヴィーガンを始めるきっかけとなった猫の話をした。僕は道路で何度も車に轢かれて、ぺちゃんこになった猫を見てから動物に対しての倫理観が強まり、ヴィーガン生活を始めた。その話をしたときの返答が、今でも頭の中にこびりついている。きっと友人は覚えていないだろうけど。

「その猫は、あなたに気づきを与えるために生まれてきたんだろうね。そういう運命だったんだね」

もしかしたら、僕を慰めるためだったかもしれないその言葉に対して、僕は猛烈な違和感と「ふざけるな」という小さな怒りを持った。その猫の死に勝手な意味を与え、運命という言葉で肯定することを許せなかった。もちろんその怒りを友人にぶつけることはせず、穏やかに反対意見を伝えてその場は終わった。

それから、僕は運命という言葉が嫌いになった。
猫の例えだと少し想像しにくいかもしれないが、例えば大切な人が病気になったこと、災害で被害にあったこと、誰かにいじめられて傷つけられたことなども同じだ。乗り越えられないような、取り返しがつかないような悲劇すらも、まるで最初から決まっている必然だったかのようなその言葉も、その根底にある思想も、僕とは相容れないものだ。

僕は、誰かの死や辛い出来事を「運命だからしょうがない」と割り切ることはしない。その出来事を絶対に許さない。運命だからと割り切るよりも、二度とそんなことが起こらないように人生を費やしたい。僕は自分自身の「許せない」という感情を素直に見つめてあげたい。

きっと、この世界から不条理な死はなくならないと思う。だから、それを感じないように、それを見えないようにする方が、メンタルは健全で穏やかな日々になるんだろうとも思う。
だけど、あの猫を見たときに抱いた絶望、祖父母や叔父が病気で亡くなったときの悲しみ、戦争の映像を見たときの憎さと失望、他人を意図的に傷つける人への哀しさ、これら全ては偽りの無い気持ちであり、工藤柊を形作る大きな要素だ。

このネガティブな感情たちを、誤魔化して生きたくはない。
トゲだらけのその感情を、大切に大切に抱えながら、傷つきながらも必死にもがいて生きていきたい。

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✏️ 書いている人

工藤 柊 / Kudo Shu

1999年2月28日大阪生まれ。高校3年生で環境問題・動物倫理からヴィーガン生活を開始。神戸大学国際人間科学部環境共生学科に入学後、学食へヴィーガンメニュー導入、ヴィーガンカフェThallo店長など活動。学生起業しNPO法人設立後、事業拡大のため2020年4月に株式会社ブイクックを創業。夢は世界平和。趣味は恋バナと漫画・アニメ。

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