【信じるのが怖かった】牧師さんと18時間話して、気付いたこと。

工藤のブログ

こんにちは、春休みを満喫しまくっている工藤(@itllbedark)です。

実は、去年の11月くらいから、牧師さんと定期的にお話をしていました。

今回は、牧師さんとのお話の中で生まれた”恐怖”の話です。

 

 

出会い

話は去年の11月に遡ります。

あるイベントでたまたま出会った人がいました。

その人とイベントの数日後にお話をすることになり、モスバーガーへ待ち合わせました。(紅茶を飲みました)

他愛もない話をした後に、話題がお互いのしていることに移りました。

ここで、衝撃の告白。

 

「僕、牧師なんだよね」

 

 

これはアツい、、、!!!!

宗教に関心があった工藤はすぐに飛びつきました。

 

「ほんまですか!良かったら話聞かせてください!」

 

そんなこんなで、軽い気持ちで聖書のお話を聞かせてもらうことになりました。

牧師さんも工藤に御言葉を話すことが目的だったみたいなので、お互いの利害は一致!

次の週からお話を伺えることになりました。

 

 

学び多き日々

それから4ヶ月ほど、週一回で1~2時間ほど時間もらって聖書についてお話を伺いました。

大阪駅の蔦屋書店で何度スタバのコーヒーを飲んだことでしょうか。

周りの人もまさか神様の話や人間の生きる目的について話しているとは思っていなかったでしょう。

教えてもらった内容については、牧師さんへ不利益が無いようにここでは触れないでおきます。

ただ、そこから学んだことや気付いたこと、三つを紹介します。

 

①圧倒的なリーダー

新約聖書には、再び神の子が降臨することが約束されています。

キリスト教徒の方々は2000年間ずっと再臨を待ちわびているんです。

ここに、人間の本質が垣間見えました。

圧倒的なリーダーを求めている、という点においてはキリスト教徒もそうでない人も同じではないのかと思います。

道を示し、答えを与えてくれる存在を待っている人は少なくはないでしょう。

自分で考えなくても、何をすれば良いかの正しい答えが与えられるなら、それほど楽なことはないですもんね。

 

②肉的な愛と脳的な愛

愛についてのお話です。

恐らく宗派によってはも違うと思うので内容はあまり出さないようにしますが、出てたら見逃してください。

肉的な愛、つまり欲求的な求める愛というのは、満たされることもなく、また持続的でも無い。

ずっと抱き合っていては生活できないように、ついには実生活に悪影響を及ぼしてしまう。

しかし脳的な愛、つまり想う愛とは、肉体が衰えたとしても持続可能です。

思考の中に愛する対象を常に置いておいたとしても、実生活に悪影響はないのです。

本来は、人間同士の愛が肉的、神様との愛が脳的と教わりましたが、脳的な愛も人間同士に当てはめることで、家族や恋人とより良い関係を築けるのはでないでしょうか。

 

③理解と共感の溝

最後に、理解と共感の間には深い深い溝があることに納得した話です。

これまで工藤がVeganであることを伝え、背景や理由を話しても、頭で理解してくれる人は多くいましたが、心から同じように感じる、つまり共感してくれる人は数少なかったんです。

いわゆる当事者意識を持つかどうか、ということです。

この現象を、牧師さんに教えてもらっているときに客観視することができました。

 

実際に、牧師さんが教えてくださることは、筋が通った話ばかりで、理論的には完全に納得していました。

しかし、共感はできない、だから信じられなかったのです。

ここの溝を越えるために必要なことは、感情の動きだと気付きました。

感情が動く経験がなければ、頭で理解できていても共感することができないという学びですね。

 

実際、工藤がぺちゃんこの猫を見ずに、ネットで畜産現場を見たとしてもveganにまではなっていなかったと思います。

 

 

信じるのが怖かった

牧師さんと出会って4ヶ月ほどが経ち、お話の内容が信じていない人には話せない内容となってきたとき、”信じるか信じないか”という二択に迷うことになりました。

そして、その迷いの原因にあるものが恐怖でした。

 

思えば、工藤はずっと一つのことを信じることが苦手だったんです。

大学受験をする時には「落ちたらカメラマンになって世界中を撮り回る」と言っていたり、恋愛するときも相手に全体重をかけることが出来なかったりと、確かにそういう傾向がありました。

その根底にあるのが、身を委ねたものに裏切られたり、それが間違いだったりして自分自身の拠り所がなくなることへの恐怖でした。

だからこそ、出来るだけ多くの選択肢を出し、その中から自分の最善だと思うものを選択してきたし、今もそうしようとしています。

しかしそこには”信じる勇気は必要ではなく、論理的に納得したという理由だけがあればいい。

そうしておけば、間違っていたり失ってしまったとしても、選択ミスをしただけで他のものを選べばいいので、大きなダメージを負うことはありません。

この生き方を続けて行くことは可能だし、正しいようには見えますが、「本当にこれでいいんだろうか」という不安が訪れることが自然なほど、確固たる軸のない脆い生き方とも言えます。

この考え方をしている人は少なくないと思います。これは工藤だけではなく、多くの日本人、多くの人間が持つ逃避欲求ではないでしょうか。

 

そして牧師さんがいうには、神様を信じれば「選択の連続である人生で、選択する時に使う正しい判断軸”を手に入れることが出来る」のです。

正しい判断軸は、神様が人間を作った目的(=創造目的)しかなく、多くの人が選択する時に使う判断軸は関わってきた人の価値観や考えの集まりでしかなく、脆くて危ういものだと言われて、少し納得してしまいました。

工藤はその時、目的を探すために生きる人生と、目的を実行するために生きる人生とのどちらかを選択する岐路に立っていました。

 

しかし、工藤は信じる”という選択は出来なかった。

 

生まれてからの19年の間、育ってきた環境、関わってきた人たちによって構成された自分の考えや価値観を変える選択がとてつもなく怖くて、出来なかった。

しかし、自分の価値観からくるものが、”正しい判断軸”だ、とも言えない。

そんな曖昧な生き方でいいのだろうかと不安になることが出来たことも、牧師さんからの話で得られた大きな学びですね。

 

「なぜ生まれてきたのか」

「何のために生きるのか」

「本当にそれは意味があるのか」

 

これらの問いにもっと真摯に向き合って行こうと思います。

 

 

 

 

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